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子供も親も一人の人間。違う人生を生きている”他人”である

SNSの投稿は本音?

ツイッターの投稿に「昨日は行くと言っていたのに、朝になると起きてこない子供。精神的にきつい」「親としてやるべきことはやっているつもりなのに、不登校で心を開いてくれない子供。どうやって接していいのかわからない」というような心の叫びをよく見かけます。

匿名で気持ちを素直に入力して、同調してもらえるのはほんの少し救われたような気がするのは、なんとなく理解できます。ツイッターで愚痴ったところで、何も解決しないこともわかっているだろうし、否定されたとしても全く知らない人だし、無視できる。投稿者もどこまで本音かわからないしね。

でも、もし仮に、この手の投稿している親が本気で思っていることを垂れ流しているとしたら、思い方が違うなと感じるのでここに書いておきたいと思いました。

自分の子供もあくまで「他人」

「他人」

  1. つながりのない人。
  2. ほかの人。自分以外の人。

他人って「血がつながっていない人」のことだと思っている人多いです。

実際は「自分以外は全員他人」です。

1の「つながりのない人」というのをどういう意味で捉えるかにもよりますが、幼い子どもは、精神的に親に依存していて、親もそれに気持ちよくなっています。だから自分の付属品のように捉えている親もいるのかも。

でも、親が置かれている環境と、子供が置かれている環境は、全く違います。関わる人も考えている内容も、全く別物。

つまり、自分で産んだ子供であっても、他の人=他人 なのです。

親が幸せであっても、子供が幸せな人生を歩むとは限らないし、親が不幸でも子供は幸せに生きていくかも知れない。

子供には子供の人生があるのです。

学校に行ったほうが、人生は比較的カンタン、、、と言ったら語弊がありますが、学校に行かずして苦労せずに幸せをつかむことは、その逆よりも難しいように感じます。

もちろんいじめからは全力で逃げたほうがいいです。

逃げて転校すればいい。

親も徹底的に戦ってもいい。

でも、それ以外の不登校、、、例えば、無気力 とか、いじめ以外の人間関係とか、、、きっかけは忘れちゃったけどもうどうやって登校していいのかわからなくなっちゃったとか。

いろんな理由があると思うけど、学校に行かずに学校で学んぶより学習できる環境が無いのなら、不登校を選んだ自分の人生は比較的ハードモード寄りになると、本人が自覚したほうがいい。

親の人生は親のものであって、お前の人生はお前のものだ。

子供が不幸になっても、親だけ幸せを噛みしめることはできる。

だって、別の生き物なんだもん。不登校の道を選ぶことは自分の人生をキツイものにしている可能性が高いことをもっと知るべきだ。

日本に生まれているだけでラッキーだし、親が悩んでSNSに投稿しちゃうぐらい気にかけてくれていることに感謝だし、自分の部屋があって引き込もれる環境が天国だし、行くだけで学べる学校という環境が与えられている奇跡を噛みしめるべき。そんなイージーなハッピーライフを、自ら「不登校」を選択している時点で「超ハードモード」に切り替えてしまっていることに気づいたほうがいい。

私は、中学3年の春に気がついた。

「やばい。このまま学校休んでたら、高校行けない、、、もしくはめっちゃ偏差値低い高校しかいけない。そこで私たのしい青春が送れるのか?結婚して子供産んで、当たり前みたいな生活ができるのか?一生親のスネかじる?親のほうが先に死ぬよね。生活保護?かっこ悪くない?一度きりの人生、楽しめるか?生活保護で楽しめるか??」

焦った。かなり焦った。不登校って、ただ学校二行かないだけじゃない。人生狂う。って。

誰に何を思われてもいいから、なりふり構わず突然学校行ってめちゃくちゃ勉強した。で、一応その地域では名前の通った進学校に行くことができた。

今、不登校してる本人は気づいていないのか、気づいているけどなんとかなると、それこそ他人事なのか。

そして、親も。気づけ。子供の人生は子供のものであってあなたのものではない。割り切ったほうがいい。割り切られると、子供は焦る。かもしれない。

親も子供も、一度きりの人生だよ。

学校にいかなくてもいい。せっかくなら楽しめるように生きよう。

ほな。

作成者: ラブリー

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