その道の「先生」と、学校の「先生」は全く別の意味の「先生」
書道家の「先生」、華道の「先生」、デザイナーの「先生」、美容師の「先生」、病院の「先生」、整体師の「先生」などなど
「先生」と一言で言ってもいろんな「先生」がいます。
広辞苑を引用すると先生は、「先に生まれた人」「学徳の優れた人。 自分が師事する人。 また、その人に対する敬称」「学校の教師」「医師・弁護士など、指導的立場にある人に対する敬称」とある。
広辞苑なので、かなり昔からそのように定義されているようです。
しかし、学校の教師は「先生」と呼ぶにはどうにも違和感のある人格の人が多々いるように思います。
その道を極めた人は「先生」と呼ばれるに足る努力をしてきていると想像がつきますが、学校の先生は、普通に大学へ行き、普通に教育学部を選び、普通に教員免許を取得すればなれる、いわば「職業」です。イラストの勉強をすればイラストレーターに、ピアノの勉強をすればピアニストに、プログラミングを学べばプログラマーになれるのと同じです。免許が必要なので、美容師や、看護師に近いのかもしれません。
でも、美容師は極めなければ「先生」とは呼ばれませんが、教師は学校に配属された瞬間から「先生」です。看護師は看護師長まで上り詰めても「先生」とは呼ばれません。
教師が正しいというのは錯覚
子育ての悩みを教師に相談したり、学校での過ごし方について担任の先生の意見を聞いたりアドバイスをもらったりすることは、何の違和感もないし、当たり前の事のようにみえます。
ただ、立ち止まって考えてみてほしいのです。先生はいったいどこで正解を学んでいるのでしょう。社会生活もなく「教師」という特殊な仕事しかしたことがない人です。勉強はできるけど、そんな人保護者の中にもたくさんいます。
知り合いの子供は特殊学級に通っています。その子がふとつぶやいていた一言が印象深かったです。
「特殊学級の先生しか、気持ちをわかろうとしてくれない。普通クラスの先生もちゃんと子供の心について勉強してくれればいいのになぁ」
先生も勉強不足の人がたくさんいます。でも「先生」と呼ばれることで、「自分は正しいことを生徒に教えているのだ」と勘違いしてしまうのでしょう。自分に反抗的な生徒には厳しくなるし、従順な生徒をかわいがったりしてしまう先生も少なくない。
そんな先生は、正しい人間なのでしょうか。
教師はもっと緊張感をもって生徒・親と接するべき
人間を指導する
日本を背負って立つ人間を育てる
崇高な職業、教師。
教師自身にその自覚はどのぐらいあるのでしょう。
知人の息子(小学生高学年)は特殊学級に通っています。ADHDの診断もあり、クラスでは浮いた存在であることは親も自覚している。
その息子が、「学校でクラスの(カースト上位の)男の子に「トイレに行こう」と誘われて一緒にトイレに行くと、子分?のような男の子が数人いて個室で殴られたり蹴られたりした」と母親に報告。もちろん母親は担任の先生に報告。すると「息子さんにも原因がありますよ」と言われたそう。
確かに、感情のコントロールが効かずクラスの輪を乱したり、一致団結ができなかったり、空気を読めなかったり、言葉遣いが乱暴だったりと、母親から見ても問題のある息子ではある。先生に「原因は息子にもある」と言われ、思い当たる節もあるため、泣き寝入りのような形で話し合いを終えたと。
息子にどうやって人とのかかわりあいを教えてあげたらいいのかと、相談された。
その教師は、学校で「主任」と呼ばれる立場で、実質、教頭の次らしい。
一方的に殴られたことに対しての答えが「原因は殴られたほうにもある」と考える人間は、子供を正しい方向に指導できるのでしょうか?疑問です。
これって、
万引きされた店主に「万引きされる店にも問題はある」
横領された会社の社長に「横領される会社にも問題がある」
殺された人に「殺される側にも原因がある」
とか言って、悪い側を擁護する考え方と一緒。
そして、問題をすり替えていることにも気が付いていない。
「だまして呼び出されて一方的になぐられた」
という問題の行動に対して正面から向き合わず、
原因に話をすり替えている。
原因があれば殴ってもいい。ってこと?
教師ガチャのはずれはあきらめるしかない
我が子を守れるのは、親だけ。
教師にもアタリとハズレがある。
相性がいいとか悪いとかではなく、人間性が良くない先生も少なからずいるのだという前提で子供を学校に送り出さなければならないですね。
まぁ、しんどいよね。
ほな。