ジョハリの窓について
まずは ジョハリの窓 をググっていただくのが手っ取り早いですが、超ざっくり解説すると
コミュニケーションにおいて自分をどのように魅せるかを提案する考え方で、心理学者の「ジョゼフ」さんと「ハリー」さんが提唱したので「ジョハリの窓」と呼ばれています。
この窓は4つに分かれていて
「自分の理解」と「他人の理解」の有無で分けられています。
「自分も他人も理解している自分」=「開放の窓」
「自分は理解しているけど他人は理解していない自分」=「秘密の窓」
「自分は理解していないけど他人は理解している自分」=「盲目の窓」
「自分も他人も理解していない自分」=「未知の窓」
開放の窓
自分が自分に対して思っている事と、他人が自分に対して思っていることが一致している部分の自分が、ここに当てはまります。
「私は明るくて誰とでも仲良くなれる」という自己評価と、「あなたは明るくて誰とでも仲良くできるね」という他者評価が一致している部分の自分。これが開放の窓に当てはまる自己です。
「自分は陰険なところがあるな」「あの人、陰険よね」というマイナス評価も自分と他者の評価が一致していればここに含まれます。
秘密の窓
自分だけが知っている他人に見せない自己の部分がここにあたります。
他人の前では明るく朗らかだけど、家では笑うこともなく根暗。とか、他人からは「あの人はとてもポジティブで悪口言ってるところを聞いたことが無い」という人でも、実はツイッターの裏垢でアンチコメしまくってストレス発散してる、、、このことは誰にもナイショ。といった、自分だけが知っている自己の部分です。
悪ぶってるけど親孝行。なんていう良い秘密の自己を持っている人も多くいると思います。
未知の窓
自分も、他人も気づいていない、まさに未知の自分です。
本人も他人も気づいていない意外な才能とか、
ひょんな事で目を覚ますサイコパスな部分とか、、、
良くも悪くも、誰でも未知の自己が眠っているのでは無いかと考えられています。
盲目の窓
私が注目しているのはここです。
自分には見えていないけど、他人からは見えている自分。
自分では頑張っているつもりでも他者の評価がついてこないとき、ここの窓に当てはまる自己が悪さをしているのではと思うからです。
自分の事はわからなくても、隣の人を見るとよくわかります。
自己評価「明るく元気」→他者評価「うるさくて仕事の邪魔」
自己評価「根暗で仕事が遅い」→他者評価「真面目で実直」
このように良くも悪くも、自己評価と他者評価がずれている部分、これが盲目の窓に当てはまる自己です。
自分ではフレンドリーな接客をしているつもりでも、見る人がみたら「気分で態度が変わる品が無い店員」と思われている可能性はないでしょうか。
自分は子供に一生懸命教えているつもりでも、他者から見たら「あんなに口やかましく注意されたらあの子はやる気を無くすだろうな」と評価されている可能性も。
おそらく、なんだかんだで、他者評価よりも自己評価が高い人のほうが多いのではないでしょうか。
例えば、、、
自分は誰よりも早く職場に来ている。誰よりも長い時間働いているのだから評価されてもいいはずだ。という自己評価でも、、、
あの人、なんで無駄に早くきてるの?短時間でどれだけ成果出すかが大切なんだ。という上司の他者評価だったとしたら、、、
盲目の窓の自分に早く気づいて方向転換しないと、いつまでも無駄な努力をし続ける事になります。
そう、盲目の窓の自己は、無駄な過大自己評価した自分が当てはまっているような気がしてならないのです。ジョハリの窓について学べば学ぶほど、恥ずかしい気持ちになってくるのです(汗)
まずは、松下幸之助さんが何度も何度もおっしゃているように「素直な自分」になって、他人から評価されやすい自分になることが大切だと感じています。去勢を張って見栄を張って「なるべく注意されないように、マイナス評価をうけないように、自分を大きくすごい人にみせるんだ!」こんな人は他人の話に耳を貸さないので「あの人には何を言っても無駄だよ、どうせ反論してくるし、言う事きかないから」と評価され、一生「盲目の自己」を知ることができません。つまり、一生無駄な努力をし続けて生きていくことにすらなり得るのです。
一度きりの人生。有限な時間を有意義に使って楽しく幸せな一生を歩くには、盲目の自分とたくさん向き合って成果を出して、他者貢献して行くのがいいな、、、と私は思うのです。
「他人の評価ばかり気にして生きるのはつまらないよ」
それもごもっともです。
評価ばかり気にするということではなく「裸の王様」は嫌だなぁ。と思うのです。
だから、自分と向き合ってゆきます。
ドMか?ただのドMなのか???
ほな!!