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”普通”に生きていくことについて考えてみた

”私は普通でいいの”という次女

「宿題だけをやっていると、そのうち授業が分からなくなって、わからなくなるからつまらなくなって、お勉強することがつまらなくなって、学ぶことをあきらめる。そうすると、行きたくもない高校に行って、どっちでもいい大学に行って、楽しくもない仕事をする。楽しくもない仕事では成果が出ないからお給料もたくさんはもらえない。そうすると、好きなことに使えるお金がない。だから、幸せで笑っている時間も少なくなるかもしれない。人の役にたって、お金をすこし多めにもらって、旅行したり好きなものを買ったり、好きな人や自分の子供にプレゼントをしてよろこんでもらったりすると、笑顔が増えて幸せな時間も増える。お金だけが幸せの道ではないけれど、今生きてる価値観の中ではお金で得られる幸せや安心が多くあることは事実。だから、、、宿題だけじゃなくて、復習と予習をする癖をつけよう。大人になっても、仕事をするようになっても役に立つ習慣だから。」

という、正論を小学3年生の次女に語ってみた。

「ま、普通の生活が幸せだよ。だから普通に宿題やるー」だって。

親の偉大さを痛感

私は、ものすごく田舎で生まれて中学にあがるまでその田舎で育った。お金が無いと感じたことは一度もないし、生活に不安を感じたこともない。父親は毎日働いていたし、母親はパート。自分達が食べる分の米と野菜と味噌を作り、買い物は近所の農協。年に1回か2回、デパートのようなところで買い物したり、年に1度は海に行ったり。中学のころ少し街のほうへ家を建てて引っ越した。高校は私立へ行ったし、お金が無くて困ったことはなかった。大学は必要性を感じなくて高校を出てすぐに希望の職種についた。車の免許を取るときも、結婚式の時も、親がサポートしてくれた。結婚して、新居を建てる時も、援助してくれた。

今は年金暮らしになり、以前ほど羽振りは良くないが、困窮している様子はない。

そういうのを”普通”として、育っている。

もっと上流階級の人もたくさんいるだろうし、もう少しお金を切り詰めていた家庭もあると思うから、私の身の回りで比べると、”普通”の家庭だと思う。

その、”普通”の家庭を、今の私は作れているのか。

正直、嫁に来た家庭は、私の”普通”より、困窮しているように感じた。家も古く、羽振りも悪く、どことなく暗い。会話の中心が妬みや不満が多いと感じる。それはやはり、毎月手に入る「お金の量」に関係があるのではないかと、直感的に感じた。

生涯現役!

老後はのんびりと?老後のんびりしてたら、動けなくなりそう。寝てばかり、家でのんびりしてばかりいたら、社会から取り残されて、きがついたらアルツハイマーが進行。

そんなことにならないためには、歳をとっても、誰かに必要とされて毎日忙しく暮らし、お金を稼いで好きなことをする。少ない年金をあてにして、定年で仕事を辞めてしまったら、狭い家で何をして過ごせばよいのだろう。

私の父は75歳まで働いていた。個人事業主だったから定年もない。天職をみつけ、生き生きと働いていた。職人同士のコミュニティがあり、仕事を辞めてからも毎日でかけて趣味に没頭している。

義父は、60歳の定年で仕事を辞めた。好きでもない職種のサラリーマン。再雇用もされなかったのだろう。義母も。それから毎日家にいるのだからコミュニティもないし、視野はどんどん狭くなる。家の中の事しかみえていないのだからどうでもいいことが目につく。出かけるとしても近所に買い物だけ。体も鈍る。

「好きを仕事に」そうできる人は少ないかもしれないけれど、できるだけ長く働ける職種で、人脈を大切にしていないと、定年と同時に人生が色あせる。

老後をのんびり、悠々自適に過ごせる人は、老後以前も好きなことをして悠々自適に仕事や趣味に打ち込める経済力と心の余裕がある人なのではないだろうか。

子供達には、私の父のように、好きな事をして楽しそうな人生を送る母と父の背中をみせていきたいな。

ほなね。

作成者: ラブリー

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