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正しい事は一つではないなんてことは誰でも知っている。けど、、、。

昨日読んだ「子供」についての本

宗教系の薄い冊子みたいな本を、知り合いが貸してくれた。

その知り合いは、子育てに、人生に、悩んだのだと思う。悩んで調べて、いろんな人に話を聞いて、行きついた先がその宗教の考え方だったらしい。

どんな考え方を説いているかというと、、、

子供は生まれながらにして一人の人間で、幼少期は力が無く脳も発達前で大人(親)に抵抗できないから、親に影響されるしかない。でも親はそれを勘違いしてはいけない。子供は自分の所有物ではないし、思い通りにいかなかったからといって責めたり叩いたりしていい対象では決してない。親が子供にしている言動を、今、自分がされたら、気が狂うはずだ。

子供に命令してはいけない。子供から自由を奪ってはいけない、子供から選択の権限を奪ってはいけない。

親は、子供の安全を確保しながら、子供の可能性を狭めないように細心の注意を払い、子供を自由にしてやる忍耐を持て。

強制、脅迫、否定、叱責、その一切を行わないように自分を律して子供に向き合うべきだ。

子供がつらい時にかけてやる言葉は、自己流のアドバイスでも過去の自分の経験でもなく、「どうしたの?」それだけだ。

親が子供に与えるものは、深い愛 それだけだ。

ざっくりすぎるけど、ざっくりこんな感じだったと、私は解釈しています。

干渉しないことの難しさ

「干渉」は良くないけど「無関心」はもっとダメ。

自分が子供の時、親に臨んでいたのは、ほっといてほしいけど愛してほしい。

わたしは過干渉なので、子供への世話焼きが激しいです。冊子を読んで深く反省。刺さりまくり。

そもそも私が大した人間ではないのに、その人間にあれこれ指図されたら立派な大人に育つわけないよなぁぁぁぁぁぁ。

現状、私よりも、子供たちのほうが才能に満ち溢れていて、未来への可能性もたくさんある。その宝石みたいな子供たちに私のクソみたいな価値観を押し付けるとか本当に良くない。

「良かれと思って」なんて全く通じない.

後悔先に立たず。子育てに二度目は無い。←どの子もたった一度の人生。子育ては二人目でも二度目ではないという意味です。

子育てに失敗も成功もないけれど、、、

自分も親に育ててもらったわけで。親からしたら、私は、子育て成功した?それとも失敗作?

親に失敗作だとは思ってほしくないけど、自己評価は低め。私の親は良い人だし多くを望まないタイプの人たちだから「お前は最高だよ。」って言ってくれる。なら、成功かな?

きっと親から見て、毎日生き生きと、失敗しても立ち上がって、愚痴を言いながらもなんとか踏ん張って、時には笑って、時には挑戦して、毎日なんとか生きている。そんな子供なら、失敗作ではないという評価なのかな。

子育て大成功!って思っている親は、子供がどうなったら大成功なんだろう?職業?収入?

子育て失敗したー-!って思っている親は、子供がどうなってしまったんだろう。犯罪者?だとしても、それは失敗なのかな。

今日からできることを娘たちにしていこう

子育てにおいて 過干渉の自覚あり の私。

今日から、やるべきことを伝えたうえで、あとは娘たちにゆだねよう。やっていなくても怒ったり責めたりせずに数日は見守ろう。

長女はピアノの練習をさぼる。

「ピアノ弾いた?」と声はかけるけど、さぼっていても見守ってみよう。今までは「やってないでしょ!テレビ禁止!!」とか安い手を使っていたけど。

娘の様子を見て、ピアノの楽しさや、続けることの大切さを少しだけ伝えてみよう。それでもサボるなら選択肢を与えてみるのはどうかな。自分で選択していいんだよって。

次女はお片付けが苦手。朝起きるのも苦手。すぐに癇癪起こして泣いちゃう。ないちゃったら「どうしたの?」って抱きしめてあげよう。落ち着いたら「お片付けって大切だよ」「朝起きることは素晴らしい事だよ」って笑顔で伝えてみよう。

私がイライラしていたら、子供たちもしんどいよね。

まずは私が心身ともにリラックスして、ゆとりが持てるように健康な心を保とう。

旦那様と仲良くして、義家族と適度に距離を保って。

私なら、できる。

と、思う(笑)

ほな!!

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反応しない練習、、、が、なかなかできない件

草薙龍瞬さんの著書「反応しない練習」をご存じでしょうか。

反応しない練習

名著です。2015年に発売。間違いなく、超ロングベストセラーになる本だと思います。

2500年前の仏陀の考え方

現代を生きる我々の悩みを解決する考え方

つまり、不変の真実なのでしょう。

反応しない練習は、

「悩みや不安はあるのが当たり前」と受け入れるところからスタートします。

”腹を立てる” ”焦る” ”不安になる” ”緊張してしまう” ”後悔” ”落ち込む”

こういう反応はすべて「無駄な心の反応」と書かれています。

そんなこと言われても、、、日々、イライラしちゃうよ。

子供が朝起きない。旦那が家事しない。上司が理不尽。部下がイマイチ。仕事が終わらない。夕飯何にしよう。掃除したい。眠い、、、。

反応しない。反応しない。

と、唱える日々。

「あの人は正しい」「自分は間違ってる」などの、「判断」も無駄だといいます。正しいひと、間違ってる人などもともと居ないのに、自分の承認欲求を満たすために「判断」して、判断しているのだと。

なーるー-ほー--どー---。

「反応」も「判断」も、もともと存在しない無駄な感情だったんだ。無駄な感情に自分を支配されて、本来感じるはずの喜びに気が付いていないってこと。らしい。

頭ではわかっていても、どうしても「反応」しちゃうのよ。

イライラしちゃう。仏陀になれない(苦笑)

練習しよう。反応しない、練習。

ほな。

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学校の先生は「先生」という職業。

その道の「先生」と、学校の「先生」は全く別の意味の「先生」

書道家の「先生」、華道の「先生」、デザイナーの「先生」、美容師の「先生」、病院の「先生」、整体師の「先生」などなど

「先生」と一言で言ってもいろんな「先生」がいます。

広辞苑を引用すると先生は、「先に生まれた人」「学徳の優れた人。 自分が師事する人。 また、その人に対する敬称」「学校の教師」「医師・弁護士など、指導的立場にある人に対する敬称」とある。

広辞苑なので、かなり昔からそのように定義されているようです。

しかし、学校の教師は「先生」と呼ぶにはどうにも違和感のある人格の人が多々いるように思います。

その道を極めた人は「先生」と呼ばれるに足る努力をしてきていると想像がつきますが、学校の先生は、普通に大学へ行き、普通に教育学部を選び、普通に教員免許を取得すればなれる、いわば「職業」です。イラストの勉強をすればイラストレーターに、ピアノの勉強をすればピアニストに、プログラミングを学べばプログラマーになれるのと同じです。免許が必要なので、美容師や、看護師に近いのかもしれません。

でも、美容師は極めなければ「先生」とは呼ばれませんが、教師は学校に配属された瞬間から「先生」です。看護師は看護師長まで上り詰めても「先生」とは呼ばれません。

教師が正しいというのは錯覚

子育ての悩みを教師に相談したり、学校での過ごし方について担任の先生の意見を聞いたりアドバイスをもらったりすることは、何の違和感もないし、当たり前の事のようにみえます。

ただ、立ち止まって考えてみてほしいのです。先生はいったいどこで正解を学んでいるのでしょう。社会生活もなく「教師」という特殊な仕事しかしたことがない人です。勉強はできるけど、そんな人保護者の中にもたくさんいます。

知り合いの子供は特殊学級に通っています。その子がふとつぶやいていた一言が印象深かったです。

「特殊学級の先生しか、気持ちをわかろうとしてくれない。普通クラスの先生もちゃんと子供の心について勉強してくれればいいのになぁ」

先生も勉強不足の人がたくさんいます。でも「先生」と呼ばれることで、「自分は正しいことを生徒に教えているのだ」と勘違いしてしまうのでしょう。自分に反抗的な生徒には厳しくなるし、従順な生徒をかわいがったりしてしまう先生も少なくない。

そんな先生は、正しい人間なのでしょうか。

教師はもっと緊張感をもって生徒・親と接するべき

人間を指導する

日本を背負って立つ人間を育てる

崇高な職業、教師。

教師自身にその自覚はどのぐらいあるのでしょう。

知人の息子(小学生高学年)は特殊学級に通っています。ADHDの診断もあり、クラスでは浮いた存在であることは親も自覚している。

その息子が、「学校でクラスの(カースト上位の)男の子に「トイレに行こう」と誘われて一緒にトイレに行くと、子分?のような男の子が数人いて個室で殴られたり蹴られたりした」と母親に報告。もちろん母親は担任の先生に報告。すると「息子さんにも原因がありますよ」と言われたそう。

確かに、感情のコントロールが効かずクラスの輪を乱したり、一致団結ができなかったり、空気を読めなかったり、言葉遣いが乱暴だったりと、母親から見ても問題のある息子ではある。先生に「原因は息子にもある」と言われ、思い当たる節もあるため、泣き寝入りのような形で話し合いを終えたと。

息子にどうやって人とのかかわりあいを教えてあげたらいいのかと、相談された。

その教師は、学校で「主任」と呼ばれる立場で、実質、教頭の次らしい。

一方的に殴られたことに対しての答えが「原因は殴られたほうにもある」と考える人間は、子供を正しい方向に指導できるのでしょうか?疑問です。

これって、

万引きされた店主に「万引きされる店にも問題はある」

横領された会社の社長に「横領される会社にも問題がある」

殺された人に「殺される側にも原因がある」

とか言って、悪い側を擁護する考え方と一緒。

そして、問題をすり替えていることにも気が付いていない。

「だまして呼び出されて一方的になぐられた」

という問題の行動に対して正面から向き合わず、

原因に話をすり替えている。

原因があれば殴ってもいい。ってこと?

教師ガチャのはずれはあきらめるしかない

我が子を守れるのは、親だけ。

教師にもアタリとハズレがある。

相性がいいとか悪いとかではなく、人間性が良くない先生も少なからずいるのだという前提で子供を学校に送り出さなければならないですね。

まぁ、しんどいよね。

ほな。