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子育てのこと

成長ホルモン分泌不全

成長ホルモン分泌不全

長女は約3100グラムで生まれて、産院では他の赤ちゃんに比べて一回り大きかった

ぷにぷにしていてかわいくてまあるいフォルムに癒やされた

バンボという幼児用の椅子に座らせるのが流行っていて、出産祝いに1つはもらうのが定番だった

長女をそのシリコン製の柔らかい座椅子?に座らせたら、太ももが太過ぎで抜けなくなってしまいとても苦労して抜いたww

そんな長女は0才児から保育園に通っていたが、2才児クラスになるころから、小さい子 という印象になってきた

小さくて可愛い女の子 おや?あんなに丸かったのにな あんなに大きかったのにな と思っていたけど、旦那さまの家計はとってもミニマムサイズだったから、それも遺伝だし、個性!女の子なんだから小さくてもOK!!と深く考えていなかった

旦那様の家族は例外なく身長150センチ前後 旦那様が唯一162センチ ご両親の兄妹もミニマム  私は158センチで「おおきくていいな」と言われたw

で、年長の夏ごろ、保育園の健康診断の先生が変わった

で、その先生が「低身長低体重ですね 一度総合病院で検査してもらったほうが良いでしょう」と診断してくれた

いままでとなんら身長も体重も変わっていないのに、急に「検査」なんて言われてびっくりした

その検査は、なんと、2泊3日の検査入院が必要なちょっと大掛かりな検査だったから内心怖かった

入院中は点滴を挿しっぱなしにしておく 何度も血液を抜く必要がありその度針を刺すのがしんどいから

薬を飲んで、飲んだ数分後~数時間後に血液をとる

それを何度か繰り返す

それ以外の時間は基本自由だから、本を読んだりおもちゃであそんだり看護師さんに遊んでもらったりして楽しくゆったり過ごした

すでに次女も生まれていたため、母親がいなくて寂しい次女のことも心配ではあったけど、次女が生まれたことによる長女の寂しさや母親を独り占めしたいという気持ちにすこしでも寄り添えたような気がして、私も嬉しい気持ちになった

その後も日帰りの検査を数回行い(検査のための薬の副作用で倒れたりも、した)検査の結果が、でた

成長ホルモン分泌不全

でした

マラドーナのやつだーーー  と、思った

成長ホルモンが出ていない 出てるけどかなり少ない(性格な数値は忘れました)

毎日皮下注射を自宅で打つ必要があり、月に一度通院して、半年~1年に一度は骨のレントゲンを撮る これを10年ちかく続ける 骨の成長がとまるまで

駐車の費用はなんと、1回約4000円 一ヶ月10万~12万かかる

それを、特別な保険で賄う(つまり国負担)

くどいほどの検査の意味がわかった、、、一人一千万円以上する治療なんだ、、、

ホルモン治療というと、変に太ったり肌が荒れたりと、ホルモンバランスの乱れを心配する声もあったし、小さいのなんて女の子は個性だ かわいくていいじゃないか という声もあった

正直、ハゲるかと思うほど悩んだ(禿げなかった)

でも、体が極端にちいさいというリスクは大きい 治療をしなければ大人になっても身長は130センチちょい 体重も30キロ前後 である可能性が高いと医者がいっていた

すると、どんなリスクがあるか、、、 

・子宮が育たない可能性

・生理がこない可能性

・骨が育たない可能性

・筋肉発達しづらくじっとしているのが辛いために落ち着かない性格になる可能性

などなど、、、あくまでも可能性であるし、そうならない可能性もある

でも、本人はまだリスクを踏まえた選択ができない幼児

毎日皮下注射をすると知れば嫌だというにちがいないけれど 恨まれてでも将来のこの子の為の決断をしよう と悩みに悩んで、、、治療することを選びました

病院に通うことも、もし、ホルモンバランスが崩れてなにか不具合が出ても、私が一緒に苦しんでいこうと覚悟をきめました

もう投与を初めて2年以上になりますが、なんの副反応もでていません

クラスで一番小さいけれど、身長も、体重も、伸びています

病的な小ささではありません

次女も小さいけれど成長ホルモンはでているようで、4歳で長女の入学のときと同じぐらいの身長と体重です

治療していなかったら、今頃どのぐらい成長できていただろうと想像すると怖いです きっと「あの時、治療することを決断すればよかった」と後悔しまくっていたと思う

子育てには、決断がつきもの

しかも、自分の事じゃなくて、別人の決断をするのだ

自分の子供であっても、私のものではない

個の人の決断を、私が

これからも震えながら、ハゲそうになりながら、決断していこう

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仕事のこと

”働く”ということ

私は二児の母です

独身時代から5年勤めた会社でに在職中に、結婚

すぐに妊娠発覚して、予定日1ヶ月前から産休&育休取得

子供の1歳の誕生日から復職(役職のまま、時短復帰)

4年後に次女を授かり産休&育休取得

1歳の誕生日から復職(役職のまま、時短復帰)

普通なんですけど、みんな普通にやってることなんでしょうけど、正直、しんどくないですか?

私は、しんどかったです。

上場企業で福利厚生が整っているならば、良いのでしょう

私の職場は、社員4名、パート7名ほどの小さな小売業

出勤はシフト制で、会社は年中無休

1日の出勤人数は6名ほど

小さな子どもを抱えての役職復帰は精神をえぐられる思いの日々

子供を大切にしたい気持ちと、仕事の責任と、家族からの冷たい視線と、、、未満児を預けて少々働いたところで二束三文

私は何をやっているんだろう、、、の毎日でした

きっと、そういう気持ちで働いている方、たくさんいると思います

出産と同時に退職して、子供が大きくなるまで子育てをして、おちついたらパートかなにかを探して、家計を助ける、、、そういう未来もあるのかもしれないと何度も思った

しかし私は、「長い目でみる」ことで、気持ちを落ち着かせる事ができました

いまは二束三文に感じても、小さな子どもを二人抱えていると、子供が度々熱をだして欠勤することもある

今の職場は長く働いてきた人間関係は比較的良好で、立場や境遇を理解してくれてる人もいる

なにより、独身時代に頑張って掴んだ社会での自分の居場所のようなものを手放してしまうことも抵抗があった

だって、登校拒否してたころ、好きな仕事で人に必要とされて毎日笑って楽しく過ごす未来なんて想像していなかったので

社会から何年も離れるのは少し怖かったのかもしれません

で、周囲からは「大変だからやめておけ」と反対されながらも、役職のまま正社員として復帰

本当に精神的にしんどい事がたくさんたくさんありました

娘たちがこれから生きていく日本では、女性は結婚しても子供ができても働き続ける事になりそうです

私は好きな仕事をしています

子どもたちに、大変でも、しんどそうでも、どこか楽しそうに生き生きと働いている母の姿を見ていてほしいな、と思っています

自分が母になったときに、生き生きと働きながら楽しく子育てができるように

私が、子供のために自分を犠牲にしていたら子どもたちは、「私のお母さんは自分を犠牲にして私を育ててくれたんだ 私も自分を犠牲にしなくては」と思う日が来てしまうかもしれない

私の母は、家庭を第一に考えてくれる人でした。でも、自分を犠牲にしているのでも、子供の都合に合わせて仕事を変えるのでもなく葛藤しながら働き、最後は不況により解雇されたけど、「解雇されたから早く手当がもらえてラッキーだったわ^^」と豪快に笑い、「なんの取り柄も無い母ちゃんを20年以上雇ってくれたんだから感謝しか無いわ」といっていた。かっこよかった。

私も、そんなふうにかっこいい母親になれたらなと思い、日々、楽しく二束三文で働くのですw

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ラブリーについて

はじめまして。ラブリーと申します。

女の子2人の母であり、自称イケメン(ジャニーズの一次試験に合格したとかしないとか)の旦那様の妻であり、義両親と義姉の同居の嫁であり、小さな小売店の管理職をしているアラフォーです。

ブログ初心者。

自己紹介は時系列で箇条書きにします。読み流してください^^

・19XX年 N県のど田舎の村に生まれる

・姉、兄、自分の3人の末っ子

・保育園の登園時は必ず大泣きしてお母さんから離れられないタイプ

・6歳からピアノ教室へ通う 同時に姉兄の影響で剣道教室へ入会

・比較的活発で通知表はオール◎ 友達も多い

・小学3年生の秋、登校拒否開始 自律神経失調症と診断される

・母親がカウンセラーの先生をみつけてくる 

・4年生からの担任の先生が百人一首を推すおじさんで、影響されて百人一首が好きになる

・5年生では、進級判断に必要な100日を超える年間欠席日数

・6年生の養護教諭(激しいおばさん先生)と運命の出会い

 人としての在り方など人間としての指導を受ける

・中学校入学から隣町に引っ越すことになり、環境が変わったことにより、何事もなかったかのように中学デビューすべく登校スタート

・順調にみえたが、中2の秋から登校できず

・3年生に進級すると同時に、登校再開(高校にいきたくなった)

・私立の進学校に入学 このあたりでカウンセラーの繊細から卒業

・高校3年間、部活と恋を謳歌しまくる

・進学せず、希望職種へ就職

・転職数回を経て現在の会社へ(小さな小売業:クセ強上司)

・結婚、出産を経て、現在に至る(職場では管理職)

自分が子育てをしながら働く日々で、登校拒否を繰り返す娘をどんな気持ちで育てていたのだろうと母親を尊敬しない日は無いです。

父は明るく社交的な人だったけど、子育てには細かいことは言わず私のことを諦めずに、見守ってくれていたことが今はわかる。

長く登校拒否しつつも、社会に出ることができたことに感謝しつつその経験を文字にしていこうという気持ちと、

現在、義家族(かなりクセが強い、ひどい)との令和ではなかなかありえないやり取りやストレスを綴ることで、勇気が湧く人がいるかも知れないという思いで、ブログをはじめてみようかと。

よし、書くぞ。