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登校拒否児童だった時

31歳で結婚して、32歳で長女出産、36歳で次女出産、40歳を超えた今、小さな会社の役職で、やっかいな上司と、かわいい数人の部下をもつ立場になったわけですが、、、まぁ、特に成果を出してバリバリのキャリアウーマンというわけでもなく、お金持ちに慣れているわけでもなく、一般的な兼業主婦になったわけですが、、、

小学生の頃の私からしたら、奇跡のような「今」です

普通に子供を産んで、社会人として生活し、まさか人の上に立つようになるとは!!

9歳当時の私と私の家族からしたら、「え?そんな奇跡みたいな未来になるの?学校行ってないのに??ものすごく暗くて扱いづらいこの子が???母ちゃんから少しでも離れたら大泣きの大騒ぎのこの気難しい末っ子が?????」と、驚きで卒倒するほどのびっくりな未来が、今 です

不登校のきっかけ

きっかけは些細なことだったと記憶しています

田舎の小学校だったのでクラスの人数も少なく、今で言う「カースト」もわかりやすく「上位」「中位」「下位」と分かれていました

私はカースト中位ぐらいにはいて、上位の人達とも仲良くしていたような気がします

ある日、5つ年上の姉が書いてくれたイラストを本のしおりにしていました

すると、カースト上位の2名の女子が「かわいいね!私にも書いてきて」と言ってきました

決して意地悪ではなく、断っても全く問題なかったと思います

変な空気は感じませんでした

なのに、わたしは安請け合いをしてしまい「お姉ちゃんに聞いてみるね」と答えました

姉に聞いてみると、それは姉の友人が書いたもので、姉は姉で「カースト中の下」あたりに位置していたので友人に頼みづらそうでした

姉の困った様子をみて「大丈夫、断るね」といったものの、、、

「明日学校できかれるだろうか」「断ったらがっかりされるだろうか」「嫌な空気にならないだろうか」「嫌われたりはしないだろうか」と、ありもしないマイナスな妄想ばかりが膨らみ、、、

次の日「お腹痛い、休みたい」と、仮病で学校を休みました

その日1日は、ホッとしたような、でも後ろめたく、ソワソワしました

しかし、私は、そんな気持ちを抱えながらも、母親が心配してくれるのが嬉しかったのです

次の日も、「、、、今日も休みたい」と、母親に伝えました

「え?今日も??どうしたの??」「なんか、気持ち悪い」

熱を計るように言われ、こたつの中でなんとか微熱程度の数値を叩き出しました

「そうなの?学校に電話するね」

2日も、ズル休みをしてしまったのです

もう、あとには引けないような気持ちになっていました

当初の「お姉ちゃんのしおり」の問題は、さほど心になくなっていたように思います

3日目になると、次は「2日も休んで、教室に行ったらどう思われるだろう」「ズル休みだと「気づかれていないかな」「どうしよう」「どうしよう」

母親に無理やり学校の前まで車で連れて行かれたこともありますが、意地で車から降りませんでした

母親はパート勤めの職場の社長さんに事情を説明して、私を連れて出勤してくれたりしました

パート仲間のおばちゃんたちがちやほやしてくれて、働く母親を間近で見て、楽しいようなくすぐったいような日々を過ごしました

私は、もう学校への行き方がわからなくなっていました。

勇気がないのです

当たり前が、当たり前じゃなくなったのです

学校へ行くことはとても高いハードルになりました

母親は、信頼できる友人の方にカウンセラーの先生を紹介してもらい、会いに行くことにしたようでした

「不登校の原因は、母親」これが先生の教えでした

「母親が変われば、子供も変わる」

母は慌てることもなく、ヒステリーになることもなく、愛情を持って私に接してくれました

とことん寄り添ってくれました

カウンセリングの先生からの言葉を、学校の先生にも伝え、方向性を一つにして私を混乱させないように、周囲の大人の足並みを揃えてくれました

ポイントは

  • 無理やり迎えに来ない(無理やり学校につれていかない)
  • 母親は仕事を辞めない(不登校の子供に合わせない)
  • 日記をつける(母親も私も)
  • 計算ドリルを繰り返し解く
  • 漢字ドリルを繰り返しやる
  • 少し嫌なこと を毎日やる(掃除や縄跳びや剣道の素振り)

他にもあったかもしれないけれど、思い出せません、、、

それでも、苦しみながら、不登校児童のまま小学校を卒業しました

6年生のときの保険の先生が、強烈なおばちゃんで強烈に厳しくて、猛烈に愛情深いおばちゃん

そのおばちゃんのお陰で、少し楽しく保健室登校できていた日々もあります

そのおばちゃんとは今でも仲良しです

40過ぎと80過ぎで、「お互い年とったね~」と笑います

今でも人生の恩師です

正直に、言うべきことを言って、嫌われることを恐れない

そういう姿勢を教えてもらいました

私は、もともと

  • プライドが高い
  • ええかっこしい
  • 負けず嫌い
  • 自意識過剰

というタイプなので、鼻っ柱をへし折ってくれた大切な先生です

小学校での不登校は、最後少し明るくなりましたが、おおよそはジメジメと暗く陰気な日々でした

まさか社会人として普通?に仕事ができるなんで、誰も思って居なかったと思います

続きは、次回

ほな

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子育てのこと 未分類

今日からやれ!小学3年から6年の漢字ドリルと計算ドリルを繰り返しやらないと、将来損害賠償を請求されることになる(かもしれない)から気をつけろ!!!

ラブリーは、小学3年生の2学期途中から小学校卒業までと、中学2年の2学期途中から2年生終了まで、不登校でした。

2学期後半ってなんかあるんかな?w

小学校卒業と同時に引っ越しして、友人関係も近所付き合いもリセットできたのが大きく作用して、中学のスタートは楽しく?登校してたけど、引っ越ししてなかったら中学3年間がっつり不登校だった可能性は大いにあると思う。

中2の終わりごろ、高校への進学を親は諦めていて「ラブリー、高校はいかないならそれでもいいから働こうね」と母親に声をかけられた。その一言で現実に引き戻されて「そうか、このままではいわゆる「普通」の生活は一生送れないかもしれないんだ」と胃が持ち上がった(気がした)。

中3に進級してからは、勉強の遅れを取り戻そうと必死になった。でも中2の後半の勉強を取り戻すのって本当に大変。中3の日々の授業も理解しないといけないし、でも空白の部分を同時進行で埋めないと前に進めない。

授業が終わってから開いてる教室で勉強して担任の先生に個別指導してもらった。担任は社会と家庭科の教科担任だったけど、頭の良い先生で、全教科みてくれた。教科担任の先生に、授業以外で自分のクラスの生徒の遅れた勉強を見てやってほしい、、、とは当時27歳の若い女性の教員は頼めなかったのかもしれない。だから、全部、担任の先生が見てくれたんだと、いまは、思う。私は本当に運が良い。先生本当にありがとう。

余談だけど、その先生は私のクラスを卒業させたあと教師を辞めてしまったらしい。ごめん、先生。辛い思いをさせて、、、。

先生のおかげで一応進学校に入学することができ、楽しく充実したJK生活を送れたのです。ルーズソックス最盛期で、恋愛もして、ラブリーの人生史上最高に輝いていたんじゃないかな。

それもこれも、中3で勉強の遅れを取り戻せたからなんだけど、、、もともと、小学校高学年ほぼ授業をうけていないのに中学の勉強をなんとかクリアできたのは、不登校で家にいても「漢字ドリルと、計算ドリルは繰り返しやれ!!」という教えを守っていたからだとしか思えない。

小3で不登校になったとき、いわゆる”カウンセラーの先生”に師事?を仰いだ。母親が不安になりすぎて右往左往していたところ、紹介されたときいています。その先生との出会いが何よりもラッキーでした。私は本当に運が良い(2回目)。

その先生は、不登校児のカウンセラーが専門職ではなかったんだけど、専門職ではないからこそ、損得勘定一切なしの指導をしてくれた。「不登校の原因は母親との関係によるものが多い」「まずは母親が変わると我が子が変わる」「子供には”嫌なことを続けさせる””漢字ドリルと計算ドリルを繰り返しやらせる”」という指導だったと思う。

小学校3年の漢字がマスター出来なければ、4年になっても6年になっても漢字は苦手なまま。小学校3年から6年までの算数が中学高校の数学の基礎になる小学生の算数を理解していない子は数学が理解できない。

そう、教えてもらった。

だから、小学生で習う漢字さえ覚えれば、小学生の計算ドリルさえスラスラ解ければ、勉強で苦労する可能性が劇的に減る。勉強が障害にならないということは、社会生活を送る上での障害が減る。つまり、ラブリーが社会に出れる可能性が高くなる。

母も、私も、先生を信じた。

”嫌なことを続ける”も同じで、社会に出ると嫌でも毎日やらなきゃいけない事が増える。それに耐えられないと生活ができなくなる。だから嫌なことを続けられる強さを身に付けさせなさい。

と、指導されて、それを、信じた。

今、その指導は確実に生きている。生きまくりである。

仕事柄、電話でお客様の住所や名前を聞き伝票を作ったりすることもある。漢字がわからないのはお客様をイラつかせる。名前の漢字を間違えてしまうと、一生に一度のイベントを台無しにしてしまう可能性だってある。

「一生に一度の大切な日を台無しにしやがって!損害賠償を払え!!」と、大事になる可能性だってゼロではない。

実際に、「メッセージカードの名前が間違っていて、数万円の代金を回収できなかった」という宝石店の店員さんの話をきいたことがある。

算数ができないと、消費税の計算は難しいのかも。いまは10%だから比較的楽だけど、12%になったら??

簡単な計算ミスに気がつけないと以外に不便だし、ケアレスミスが多いと信用も失う、、、。

私の職場には、漢字苦手、算数苦手、な大人が何人かいる。「あー。小学生の漢字と算数、あきらめたんだろうな。嫌なことから逃げて遊んでたんだろうな。」と思う。そういう人は比較的仕事を選ぶし、社会人として活躍していない印象すらある。もちろん、偏見も私感もたっぷり入った見方だけど。自分だってそう思われてるかもしれない。

よし、気を引きしめるぞ。

パンダのティッシュケースw

北京オリンピック、いろんな気持ちが交差しながらみてしまう歳になりました。日本人だけじゃなくて、頑張っているひとみんなが活躍出来ると良いですね。

あ、うちのこ、漢字テストで赤点とってきて。間違えたところ勉強するように言ったら「先生にそんな事言われてない、宿題はおわってるんだからやらなくていいじゃん!」と切り替えされ、「アホは時間が経ってもアホのままなんだ!今アホなら努力しないとずっとアホだぞ!アホがなりたい自分になれるとおもうなよ!」とどなったら泣きまして。大泣きしたあと、すこしだけ漢字勉強してました。「小学校で習う漢字がかけないと、誰かの大切な日をぶち壊してしまうかもしれないんだ。他人に迷惑をかけない程度に、勉強したほうがいいよ」とお話したけど、私の母のように、カウンセリングの先生のようには、伝えられていない、、、。

うちのこは、運が良いだろうか??

ほな!

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未分類 自分のこと

私が不登校になる前は

小学3年生の秋から、小学校卒業まで不登校だった

不登校になる前は、、、

比較的明るく、勉強は得意な方で、運動もそれなりにできて、社交的で、空気が読める、そんな児童だったと思う

だからこそ、自己顕示欲と現実との狭間で苦しんでいたのだけれど、なんと贅沢な心の病であることか

とにかく、相手からよってこられるのが苦手だった

追われると逃げたくなる

期待されるとしんどい

でも、相手にされないと不安

そんな揺れ動く感情を抱えきれなかった

で、それが不登校という形で出てしまった

友達にも好かれていたし環境にも恵まれていた

今思えば、贅沢な悩みだったとわかるんです

甘えがあったと思う

でも、幼少期の私は、今よりもしたたかで、今よりも傲慢だった

大人の顔色を伺っているうちに、学校へは行かない方が、「特別な存在」でいられる

と、気付いてしまった

それはそれで闇が深いか

だから、私は子供のしたたかさに敏感だ

見抜いて認めさせる

嫌な母親かな

ほな